そういや気が付くと映画を字幕を観てない時間が多くなってきた。英語が聞いてわかるようになっている自分に驚いている。昔は英語なんて何言ってるかわからず、英語アレルギーのような感じで僕の英語嫌いは結構有名だった。そんな僕も気が付けば英語が聞こえるようになってるわ、そんな難しい言語じゃないんだなぁと思いつつ、言い回しが定型文ばっかりでよく飽きないな英語圏の人はとか思うようになった。
英語がわかるようになると、改めて偉大さに気付くのは堀口大學先生だ。思春期に外国文学に憧れた時に最近の翻訳は違うのだろうけど、昔は結構堀口大學先生の翻訳でこれがまた難解な日本語で超文学っぽくなっていた。日本の文学作品よりも威厳のあるような文体と難解な言い回しとかであれは読むのに苦労したというか、もう読むパズルみたいで大変だった記憶がある。しかし、そんな堀口大學先生が難解にして威厳のある文体にしてた作品も元は英語だとすると本当に単純な言い回しだったんだろうと思うと、あの人はこんな単純な言語をここまで難解にしてたのかと改めて尊敬する。
英語って良く聞くと単純で、これをそのまま日本語にしたらきっと頭の悪い子が話してるように思えるんじゃないかと思う。逆に言えば日本語は本当に装飾する言葉多すぎるというか、あのイエスかノーかのアメリカ人もきっと日本語にしたら、曖昧な言葉を使って曖昧な意見を言う国民性になるんじゃないかと思う。だから、まあコミュニケーションには日本語がいいかもしれないけど、会議は英語って言うのは案外理にかなってるんじゃないかと最近思う。でも慣れない言葉で仕事するのはどうかと思うけど。
まあ、そんなわけで英語が大嫌いで仕方なかった思春期を送ってた僕でも映画館留学でいつの間にかヒアリング能力が向上していたわけだ。あとは話せるようになれば完璧だけど、話す相手がいないんじゃ、こっちの能力は当分先まで伸びることはなさそうだ。まあ、当面の目標である字幕を見ないで映画観るという目標はもうじき達成されそうだ。